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[写真]新宿御苑の風景式庭園での様子です。巨樹が並ぶ明るく広々とした芝生には、ピクニックを楽しむ来場者の姿があります。

History

新宿御苑の歴史

1590-1871

新宿御苑のルーツは、大名の江戸屋敷

新宿御苑の歴史は、1590(天正18)年に江戸城に入城した徳川家康が、当時側近だった内藤清成に新宿一帯の土地を授けるところから始まります。後に「内藤新宿」と称されることとなるこの場所を、清成が手にするまでには、面白い逸話が残っています。
家康が清成に対し、新宿御苑がある場所から「馬が走ることができなくなる場所まで馬を走らせよ。馬が走った範囲は全て清成の領地である」と命令し、最終的に清成は東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保まで及ぶ広大な土地を賜ったと伝えられています。

その約100年後、内藤家7代目当主である清枚が信州高遠藩の藩主に就くにあたり、内藤家は新たに神田小川町を上屋敷として拝領し、四谷屋敷を下屋敷としました。その後、内藤家は幕府の要請に応じて下屋敷地の土地の一部を返還。幕府はその地に町屋と共に馬継ぎの施設を設けて甲州街道の宿駅としました。それにより、この地は「内藤新宿」と呼ばれるようになりました。内藤家の下屋敷は一般的な江戸下屋敷と同様、庭園が造られ、隠居した前当主が住まう空間や藩主の保養先として活用されました。1772(安永元)年に玉川上水の余水を利用して完成した庭園は、「玉川園」と命名され、現在の玉藻池と呼ばれる池を中心に造成され、季節ごとに一般に開放されていました。

「内藤新宿千駄ヶ谷辺図(部分)尾張屋清七板」(新宿歴史博物館所蔵)
※黒線で囲んだ部分が後に新宿御苑となる
1857(安政4)年の四谷内藤新宿。歌川広重『名所江戸百景』(国立国会図書館所蔵)

1872-1905

園芸学の中心地、内藤新宿試験場が誕生してから新宿御苑ができるまで

新宿植物御苑の責任者、福羽逸人

1868(明治元)年の明治維新後、大蔵省が内藤家の邸宅であった内藤新宿屋敷とその周辺の土地を購入し、合わせて58.3haの土地に明治政府は日本における近代農業の振興と改善を目的として、1872(明治5)年、内藤新宿試験場を設立しました。ここでは欧米の技術や品種を含め約3,000種もの果樹・野菜が栽培され、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われることになります。1874(明治7)年には農事修学所(後に東京大学農学部などの前進である駒場農学校となる)が設置されるなど、更に農業振興政策が推進される中で、内藤新宿試験場の業務が三田育種場と駒場農学校に移ると、1879(明治12)年に、新宿の土地は皇室に献納され、宮内省に所管を移し、名前を「植物御苑」に改めました。植物御苑の時代には、内藤試験場から引き継がれた果樹園や製糸場のほか、鴨場、動物園(1926(大正15)年に上野動物園に下賜)などが新たに作られるなど、皇室の御料地・狩猟場として役割を担ってきました。その後、植物御苑は1886(明治19)年に「新宿御料地」に改称され、御料地の中でも特に「小園芸場」を新宿植物御苑として指定し、園芸に力を入れていきます。さらに1892(明治25)年には本格的な加温式の温室が新設され、新宿植物御苑の園芸事業を特徴づける重要な施設となっていきます。また、1896(明治29)年には、天皇や皇族が新宿植物御苑内の温室で植物鑑賞をする際の休憩所として、旧洋館御休所が建てられました。

1908(明治41)年の温室

新宿植物御苑が、現在の新宿御苑に近い庭園の形へと造成されるのに、中心的な役割を果たしたと考えられている一人の人物がいます。それが福羽逸人です。福羽逸人は、1877(明治10)年、内藤新宿試験場の農業生としてこの道に入ります。1886(明治19)年から3年間、フランスとドイツに留学すると、帰国後、温度制御が可能な西洋式温室の再建に取り組みました。この温室では、西洋の果樹や野菜だけでなく、熱帯や亜熱帯の植物も栽培されました。果実栽培での福羽の功績の一つが、国内初のイチゴ「福羽苺」や現在のマスクメロンにつながるメロン、マスカット・オブ・アレキサンドリア等の栽培です。
1898(明治31)年、福羽は新宿植物御苑の責任者に就任しました。福羽は1900(明治33)年に訪仏した際にパリの万国博覧会に菊の大作り3鉢を出品し大好評を得て、ヴェルサイユの国立園芸学校で教授をしていたアンリ・マルチネに新宿植物御苑を西洋式庭園として改修するための設計を依頼します。その設計に基づき、1902(明治35)年から1906(明治39)年までの5カ年の大規模な庭園改修を行い完成した庭園が、現在の新宿御苑のレイアウトの基礎になっています。

1906-1949

皇室庭園としての新宿御苑

アンリ・マルチネによる庭園の完成予想鳥瞰図。

1906(明治39)年にマルチネの設計によって造園された新宿御苑では、皇室庭園として様々な皇室行事が催されました。1917(大正6)年には桜の観賞を目的としていた行事である「観桜会」が、そして、1929(昭和4)年からは、菊の観賞を目的とした行事である「観菊会」が新宿御苑に会場を移し、開かれるようになりました。大正時代(1912~1926年)後半には新宿御苑内にゴルフコースやテニスコートが整備され、皇室の方々がレクリエーションのために訪れるようになると、旧洋館御休所はクラブハウスとして利用できるよう増改築が繰り返し行われていきます。また、1927(昭和2)年には当時皇太子であった裕仁親王(後の昭和天皇)の御成婚を記念し、台湾在住邦人の有志によって旧御凉亭が造営、献上されました。その後、新宿御苑は1945(昭和20)年の空襲によって、旧御凉亭と旧洋館御休所を残し、苑内はほぼ全焼してしまいます。戦後、一時東京都の所管となり、東京都立農業科学講習所高等科が設置されたこともありましたが、1947(昭和22)年12月に、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに国民公園として運営される旨が閣議により決定し、1949(昭和24)年5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に開放されることとなりました。現在の新宿御苑は1906(明治39)年のレイアウトに基づき改園されており、ほぼ当時の姿を取り戻しています。

1949(昭和24)年~現在

都会のオアシス、国民公園新宿御苑

1953(昭和28)年頃の新宿御苑の様子。「新宿御苑児童遊園地地図」(新宿歴史博物館所蔵)
1958(昭和33)年の大温室。

新宿御苑は1949(昭和24)年に国民公園として一般公開が始まり、1950(昭和25)年に厚生省の所管となりました。その後、1971(昭和46)年の環境庁の発足に伴い、全国の国立公園などと共に所管を環境庁に移しました。そして2001(平成13年)の省庁再編により環境省に所管を移し、2006(平成18)年に「新宿御苑」という名を冠してから100周年を迎え、現在に至っています。一般公開が始まった当時の入場料は20円で、公開から10か月で105万人が来場しました。1949(昭和24)年には戦時中休止していた菊花壇を設け、皇室庭園時代からの伝統を受け継いだ菊花を初めて一般公開しました。1958(昭和33)年には温室が再建され、アジア最大級の温室が完成し、その後増改築を経て、2012(平成24)年には、気候などに応じて多様に植生する熱帯の植物及び絶滅危惧種の植物などの栽培・展示を行う環境配慮型の温室として生まれ変わりました。園内には一年を通して様々な花が咲き、豊かな環境は昆虫や鳥など野生の生き物の住み家にもなっています。温室の中で生き生きと葉を茂らせる熱帯の植物に囲まれてみたり、威風堂々としたヒマラヤシーダーやラクウショウ等の巨樹を巡ってみたり、それぞれ違った楽しみ方を見つけることができるのも新宿御苑の魅力の一つです。自然に触れながら心と身体を癒し、リフレッシュできる新宿御苑は、都心にある緑のオアシスとして、国内外の幅広い世代から愛され続けています。

年表

1590
内藤家が徳川家康から約70haの土地を拝領
1872
大蔵省が旧内藤家屋敷地に植物試験を行う内藤新宿試験場を設立
1875
最初の温室を建築
1879
宮内省に所管替え、「植物御苑」と改称
1892
加温式の本格的な洋風温室を建築
1896
洋館御休所が完成
1900
福羽逸人がアンリ・マルチネーに庭園の改修設計を依頼
1906
庭園への改修工事が完了し、「新宿御苑」となる(現在の新宿御苑の原型となる庭園が完成)
1917
観桜会が新宿御苑で初開催
1927
御凉亭が完成
1929
観菊会が新宿御苑で初開催
1945
空襲により一部の建物を残し園内がほぼ全焼
1949
国民公園として一般に公開
1958
アジア最大規模の新しい鑑賞用温室が完成
1985
自然教育を目的とした「母と子の森」が完成
1989
昭和天皇大喪の礼を国事行為として実施
2001
旧洋館御休所が国の重要文化財に指定される
2012
環境技術を取り入れたガラス張りの新温室が完成
2022
新宿御苑ミュージアムが開館
2024
新宿御苑コワーキングスペースが運用開始
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